理事長コラム~今月のひとこと~
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もう一つの世界
2011-11-25
田口ランディの『もう消費すら快楽じゃない彼女へ』(晶文社)というエッセイ集に「夜明け」という章がある。かつてはぶんぶん風で揺れているようなときでも、幅60センチほどの手すりもない浮桟橋をひょいひょいと渡っていた、生まれながらの「プロの完璧な盲人」だった知人が、手術を受けることで「不完全な健常者」になり、自殺未遂をはかる。知人は生まれたばかりの赤ちゃんがいきなり正常な視力を持ってしまったような状態に置かれた。焦点が合わず、視点は散乱している。焦点の合わない世界はぼんやりとした幻影にみえた。また、知人には人間という認識パターンがなかった。手術後初めて目を開いた時、人間はぶよぶよと不規則にうごめく不気味ないくつものかたまりでしかなかった。さらに遠近法でものを見ることが出来ない。二次元と三次元の構造がわからない。しかも動態視力はゼロに近い。知人にとって見えることは苦痛でしかなかった。
しかし、それでも人は希望という記号を持つ。「そりゃあ、とても気持ち悪くて、一人だけのけ者みたいで、不自由だよ。ひどい頭痛はするし、ときどきあまりにモノが多すぎて目まいがする。吐くときもある。世界のモノの多さに僕はついていけない。だけど、たった一人夜明けの砂浜に座って海を見ていると、波の音とうねりがだんだんとひとつになって、そういうときほんの少しだけ世界に焦点が合って、はっきりと鮮明に景色が見える瞬間がある。そういうときは頭のなかがすうっとして、神経の昂ぶり静まっていくような気がする。ああ、これでいいんだ、これでいいんだって思う。見えなかった時のようにとても確かに自然にそこに坐っていられる。ほんの一瞬なんだけどね」。
揺れているアイデンティティのなかにも、もう一つの世界、第三の世界へむけての希望が見えるような気がした。パレスチナ生まれでアメリカに移住したサイードは言う。「アイデンティティは固定したものではなく、複合的で流動的なものだ」。