理事長コラム~今月のひとこと~
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「フリースクール、ホームエデュケーション、義務教育に」に思う
2015-06-25
不登校の子たちが通うフリースクールや家庭など、小中以外での学びを義務教育の制度内に位置づける法案「多様な教育機会確保法案」を、超党派の議員連盟の立法チームがまとめたとする記事が目に留まり、気になっていた。なぜ、国はフリースクールやホームエデュケーションの存在を認めようとしているのかというひっかかりだ。
そのこともあって、ある会主催の、「学校へ行けなくても大丈夫」と題する講演会を聞きに行った。講演者は、『Fonte』でもお馴染みの東京シューレ代表、奥地圭子さん(74歳)。奥地さんは高校まで三原で育ち、小学校教員を22年やっている間に、子どもさんが不登校を経験したこともあって、親の会やフリースクールの結成にかかわって来た人。奥地さんの見解を聞きたかったが、質疑の時間がなく、会の趣旨からしても、あえて見解を聞くことはもはばかられた。
私の聞きたかったことは1つ。「奥地さんは、今回の法案化の動きをどう評価しているのか」。その理由は、かつて、不登校が登校拒否と呼ばれていた時代には、「拒否」に象徴されるように、公教育の画一性、管理性を告発するという面をフリースクールは持っていたが、その問いかけはどこに行ったのか、今回の法案化で、仮に学校外に学びの場が保証されるとすれば、奥地さんはそれでいいと思っているのかどうかということだった。
現在10年以上も12~13万人で高止まりしている「不登校児童」を、ホームエデュケーションを含めて取り込むことで、「処分」あるいは幕引きをしようとしている面があるような気がしてならない。それで、現在の公教育のありようは問われなくなり、選別・分離はさらに加速していくことになる。文化庁長官となった作家、東大出の三浦朱門は、かつて「教育は1%のエリートを育てればいい」「限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいい」とその選民思想をあらわにしたことがある。
現在、障害児教育の場では、国際的なインクルージョンの動きに逆行して、分離教育が加速していることとも重なって来る。「学校に行くのが当たり前」という現在の学校のありように対して、多様な学びの機会が確保されることは評価できるとしても、元々の公教育への問いかけを措いたまま、手放しで評価することがあってはならないと思っている。