理事長コラム~今月のひとこと~
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まなざしの地獄と回復
2015-09-22
視覚障害者の同行援護(外出支援)に係るくれんど主催の講座運営の足しになればと、夏の真っ盛りにのこのこ京都まで出かけて行った。
4日間、朝から夕方までみっちり鍛えられたが、技術指導の方法一つを取ってもなかなか60を過ぎた身には付かず、ほとんど落ちこぼれ状態のまま、きつい研修を終えた。そのほかにも、バスの路線を間違えて反対周りから会場に向かい、30分で行けるところを1時間もかかっていたことに3日目になってようやく気づいたり、何でもないところで転んでひざを擦りむいたり、例によってグループワークの輪のなかへ入れなかったりと、小さなことが意外なダメージとなり、研修の終わる頃にはすっかり怖気づいている自分がいた。
それでもわたしの場合は、休憩時間になると、いの一番にトイレや外へ走って逃げ出すことが出来たり、終わってみると、やはりこのままではくれんどの講座を受講してくれた人たちに申し訳ないという気持ちや、わずかながらクソッタレという意地がもたげて来たりもした。
皮肉なことだが、こんな経験を通して思い当たったことがある。障害者は、こうやって自分を否定する世間の目(社会の烙印)を、長い時間をかけて、自分自身の中へ取り込んでいくのかなという思いだ。自分に対する最後の加害者になるのは、究極のところ、他者の視線を取り込んだ自分自身だ。サルトルはそのように追い込む他者の視線を「まなざしの地獄」と呼んでいる(『出口なし』)。サルトル自身が斜視であったことと関係しているのかどうかは分からないが、「地獄とは他者のことだ」という言い方もしている。
こじつけがましい最後だが、そういうところから、それでも人は立ち上がっていくのだ、人としての主体を回復していくのだという希望を、目の前の障害者と共に出来たらと思いたい。PTSDがあれば、PTG(Post Traumatic Growth)「心的外傷後成長」という回復力もまた必ずある。