理事長コラム~今月のひとこと~
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だれのための予定調和か
2015-12-23
昨年の秋、1泊2日の検査入院をした。結果的にはいちばん痛かった点滴を2回やり替え、手術台で麻酔を打たれた後、エコーをしながら3人の医師が「これが門脈でこれが静脈?この間を行きましょうか?」「イヤイヤ、こっちが門脈で、そっちが静脈、その下が安全だよ」などという心許ない会話を交わしているときが、恐怖の頂点だった。どんな方法で組織を取るのかよく聞いていなかったことも加乗して、ドリルで穴でも開けられるような気分になった。
本当の試練は、終わったあと「3時間の絶対臥床、絶対安静」中だった。こちらは小便が近いと来ている。その上、点滴をしている。が、起き上がる勇気もない。時計とにらめっこしながら1回めは約40分でギブアップ。ナースコールですぐに来てくれたが、いっぺんガマンすると残尿量は大幅アップ。それで、2回めからは「このままではダメだ」と敢然と開き直った。ナースコールを押し、シビンを持たれてると焦るので「また呼びますから」とベッドから離れてもらったりした。都合4回。
…これくらいの生検、さらに明白な相互了解の下にあっても、自分では大きなストレスにさらされた。ひるがえって障害当事者の場合は、どうだろう。相互了解もへったくれもない。「予定調和」は相手側の都合、対等でない場、選択しようのない場に置かれることが多い。
医療や福祉に限らず、教育や療育の場でも、悲劇は、支援者側がしばしば対等でない環境や条件に気がつかないところから始まる。