理事長コラム~今月のひとこと~
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くれんどの14年をふり返って
2018-04-18
生まれ育った地域で暮らしたいという筋ジストロフィーのきょうだいの思いと、地元に居場所・行き場所をつくりたいという家族の思いを受けて、障害者の地域生活支援事業所を立ち上げてから14年が過ぎた。現在そのメニューは、①地域生活支援センター(相談、短期入所、日中一時支援)、②居宅支援センター(重度訪問介護、居宅介護、訪問介護、行動・同行援護、移動支援、介護タクシー)、③共同生活支援センター(グループホーム)、④子ども・家族支援センター(放課後等デイサービス、保育所等訪問支援)、⑤地域協働センター(就労移行、就労B、生活介護)等必要に応じて広がり、町のパン屋や地域食堂、便利屋・移動販売などの地域事業を展開している。働くスタッフは110名、利用当事者は月間延べ250名ほどになる。一人暮らしをしている当事者は6名、グループホームは1軒4名である。
北九州の抱撲の奥田知志さんのことばを借りれば、「行くところ」「すること」「帰るところ」を14年かけてつくって来たことになる。立ち上げの動機からふり返ってみた。
3つの動機について述べたい。1つ目は、私自身の動機である。立ち上げの際はあまり意識していなかったが、いまふり返ってみると、その底流に、22歳で他界した知的障害を持つ姉の存在と母親の思いが流れていたように思う。
母は、ときに自分が死ぬときは姉を一緒に連れて行くと話していた。また、「(こういう子を)持ってない人には分からない」とも話していた。その考えを、89歳で亡くなるまで変えることはなかった。一方、姉は就学免除のまま在宅で過ごしていたが、施設入所することになった14歳のある朝、泣いて抵抗し、結局その後の10年を在宅で過ごして亡くなった。葬式は、「家」の葬式だった。遊び友だちもいなかったことを考えれば当然のことかも知れない。隠されるのが姉という障害者の宿命と言うなら、「生きた証」「生きる意味」とは何だったのか、ほかに選択肢はなかったのかその後考えるようになった。
2つ目は、同じ町内(現在は合併して市の一部)に住む筋ジストロフィーのきょうだいとの出会いだった。このことが事業を立ち上げる直接のきっかけになった。出会いは、20年ほど前に立ち上げた寄合所帯の任意団体だった。そこには、家族会や手話サークル、食を楽しむ会、くらしと教育を考える会などの団体が集まっていた。そこから、2人のきょうだいを中心とした「障害者の自立生活を実現する会」が生まれた。
「死んでも、病院には戻りたくない」という強い決意の下、先輩自立生活者などの話を聞きに行ったり、実現する会で学習会を続け、行政交渉を続けた。合併後24時間の介護が実現し、現在に至っている。
3つ目の動機は、地元に居場所・行き場所をつくりたいという親の願いだった。親の本音は、居場所・行き場所だけではなく、すること(やりがい)や帰るところを、親あるうちに作ることにあった。その願いが、店のオープンや便利屋・移動販売、まちづくり協議会への参画、一人暮らしやグループホームを実現することにつながったと思う。