理事長コラム~今月のひとこと~
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死んでも病院に戻らない
2019-02-08
1月22日、中井洋介が死んだ。享年36歳。デュシェンヌ型筋ジストロフィー症。病院併設の養護学校高等部卒業の年に18歳で自立生活を始めて8年、さらにくれんどから独立して8年、まさに「死んでも病院には戻らない」という当初の決意を体現した死にざまだった。
最初に出会ったのはまだ高等部時代、6歳上の同じ障害の兄といっしょに病院を見舞ったときだった。煩わしい手続きを経て入った筋ジス病棟は、タコ部屋だった。仕切りのない廊下の両側に4人(6人)部屋が4,5部屋ずつほどあった。その1つにいたイケメンの好青年が洋介だった。部屋と廊下以外にない、その病棟を出るのに主治医の許可が要り、親・きょうだいが迎えに来ないと外出も出来なかった。
2002年の12月、社協に3人の介助者を自薦登録するカタチで自立生活を始めたのは、川沿いの官有無番地。すきま風がバンバン入った。当初、町と交渉の末取れた介助時間は1人たったの6時間、それに生活保護の他人介護料4時間分を合わせて10時間。きょうだい2人セットで暮らすよりほか選択肢がなかった。
2人での生活を始めた6年後、厳しい生活環境のストレスからか兄は発熱から一気に肺炎となって死線をさまよい、奇跡的に命を取り留めた後人工呼吸器と胃ろうを造設して、その後2年半にわたって実家での生活を余儀なくされた。洋介はその間、呉市から27時間の介助時間を勝ち取り、2011年の6月には、兄に住居とスタッフを譲るカタチで、広域協会(CIL)の支援の下くれんどを独立して、広での自立生活を始めた。
以後8年、ふたたびよく話をするようになったのは、呉市障害者自立支援協議会に自立障害者(団体)として参加するようになった昨年からである。
昨年末からの兄の独立問題に係る話し合いで、中井洋介から言われたことばが耳を離れない。
「小学生のボクに兄はまぶしいくらい自信のある存在だった。兄には、もう一度あの頃のような自信を取り戻してほしい。」
1月26日の葬儀は、途中からこの冬初めての雪が降りしきった。葬儀の最後に洋介が作詞したという曲と洋介自身の歌声が流れた。透明感のあるいい声だった。思い返してみれば、中井洋介、なかなかのイケメンでいい声だった。半面、セクシャリティを含め、独りの人間としての泥臭い生きざまを、わたしらに強烈に見せつけて、あの世に逝ってしまった。のたうち回った人間臭さを、いま語ることはできない。