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理事長コラム~今月のひとこと~

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あたり前に、人は、死ぬ

2019-05-10
 2013年の12月、長野県松本市の特別養護老人ホームで、85歳の女性が、おやつに配られたドーナツをのどに詰まらせて窒息し、約1カ月後に低酸素脳症で死亡するという事故があった。
 
 事故は事件として立件され、この3月の終わり、ドーナツを配った准看護師に罰金20万円の有罪判決が地裁で出された。弁護側は即日控訴したというが、介護現場にいる人間としては、何とも釈然としない判決である。
 
 亡くなられた方には申し訳ないが、介護現場での萎縮がさらに拡がり、誤嚥のリスクのある人は「すべて流動食」、あるいは「胃ろうを造設しないと受け入れない」という時代がまたやって来ないとも限らない、という感想をもった。
 
 何度か話をして来たことだが、私自身の母親の看取りで唯一後悔していることは、点滴だけは最後までし続けたことである。痛がって、外そうとするので、あっという間にミトンからつなぎ服になった。老衰で血管はほとんどつぶれていた。胃ろうの造設や中心静脈は断ったのに、点滴だけはあたり前のように最後まで続けた。そのことをちょっぴり悔やんでいる。
 
 中井さんのような筋ジストロフィーやALS(筋萎縮性側索硬化症)の人たちのことを言っているのではない。ベンチレーター使用者ネットワークの当事者ユーザーは、「人工呼吸器はピアスと同じだ」と主張していることはその通りだと思うし、もちろん、日本尊厳死協会などが、人工呼吸器などをつけさせない運動をしていることには反対だ。
 
 私が問題にしているのは、老衰におけるターミナルケアの質についてである。あるいは、誤嚥をおそれるあまり徹底したリスク管理の下におかれるやも知れない介護現場の萎縮である。
 
 誤解をおそれず、人間は死に向かって、今を生きている存在である。死というものが傍らにあるからこそ、あるいは世界に投げ出されているからこそ、人は逆に生きることができる。いつまでも死なないとしたら、人はいつまでも何をする気も起きないだろう。その意味において、「実存は本質に先立つ」(サルトル)のであり、「死をもって良心の声は呼び起こされる」(ハイデッガー)。
 
 人はいつか死ぬ。乱暴な言い方だが、誤嚥や事故を恐れてばかりいれば、重度障害者はシャバでは生きられない。さらに、当事者や家族はその意味で、ある種の「あきらめ」を持たなければこれもまた、シャバで生き続けることは出来ない、とも思う。医療事故を肯定しているのでないことは分かっていただきたい。

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