理事長コラム~今月のひとこと~
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また7月26日がやって来た
2019-07-10
事実(ファクト)に基づいてなどと言いながら、なかなか人は自分のことになると受け止めるのが難しい。そもそも、国からして、モリカケ問題から老後の資金2000万円不足問題に至るまで、おそらく9割以上の人がウソだと思っていることを、そうではないとフタをし、お為ごかしの選挙をしてしまえば嵐の過ぎそうな状況のなかで、私たちが同じようなことをしようとしたとしても無理からぬことかも知れない。衆愚政治のなれの果てである。
イジメ問題しかり、差別事件しかり、苦情・事故しかり、当事者が死なない限り、あるいは死んだとしても、なれ合いと責任の空洞化のなかで、被害者抜きの「手打ち」は行われ続けている。当事者の痛みと痛みを放置する社会構造は置き去りにされたままである。
近年そのたびに行われる個人責任論に基づくトカゲのしっぽ切り、形式的な厳罰化、あるいは力のある者同士の、なれ合い的な一方的な解決を、わたしが支持しているのではないことは言うまでもない。
政治思想家の丸山真男は、日本を戦争に引きずり込み抜け出せなかった組織の体質を「(天皇を頂点とする)無責任の体制」と呼んだ。また、中国新聞論説委員だった松江澄さんは集団になるとファナティックになる心的構造を「日本的集団主義」と呼んだ。
もう一度言うが、あったことをなかったことにすることはできない。ドラッカーは、NPOにはパフォーマンスに強いが、メンテナンスに弱いと指摘した。なれ合いに陥りやすい体質は元々ある。最終的にトップがどっちに向いて泥をかぶるかということによって、その帰すうが左右される。くれんどもまた例外ではない。ヒヤリハット・事故の分析は、防げる事故、とりわけ単純なルール違反をなくすことと、不可抗力による事故を分けること、背景の分析に力を傾注する必要がある。
やまゆり園という大規模コロニーで46人の障害者が殺傷されてから3年が経った。また7月26日がやって来る。「心失者」と呼んだ加害者の心的構造につながるものを自覚することから、私たちの社会の闘いは始まる。