理事長コラム~今月のひとこと~
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人間が非人間化するとき
2024-05-22
セルゲイ・ロズニツァ監督のアーカイヴァル・ドキュメンタリー映画『破壊の自然死』と『キエフ裁判』(2022)を観る機会があった。『破壊の自然死』は、第2次世界大戦中のドイツ軍による1940年11月のイギリスの都市コベントリィへの爆撃と、その報復として1942年から45年にかけて、イギリス空軍だけで延べ40万の爆撃機がドイツの131の都市に100万トンの爆弾を投下したという「絨毯爆撃」の数々が、さながらこの世界の終わりを告げるかのように執拗に描かれていた。
地形がゆがむほどの圧倒的な暴力と破壊の前に、どちらの陣営であれ、正当化できる正義の戦争などどこにもないことを強く感じた。そして、これには既視感があった。日本軍による重慶爆撃とその報復とも言われる東京空襲や呉空襲を始めとする日本の都市への空襲、果ては、広島、長崎への原爆である。
『キエフ裁判』は、ニュルンベルグ裁判、東京裁判とならんで、第2次世界大戦中の戦争犯罪を裁く3大国際裁判と言われる裁判の一つである。映画『キエフ裁判』は、その公開裁判のドキュメントであるが、最後12人の戦犯の公開絞首刑の場面が未だに目から離れない。数万の群衆が押し寄せての公開処刑である。
12人の戦犯は、戦場で確かにひどい虐殺を行った。裁判ではそれぞれに言い訳をしたり、助命を乞うたりしていたが、それでも、だれも戦争犯罪を認めなかった東京裁判に比べればまだましなのかも知れない。そして、証言台に立つかれらは、虐殺を行ったとは思えない普通の人間だった。むしろ、世が世なら別の活躍の道もあったろうにと想像された。
しかし、わたしがショックを受けたのは、そのことよりも先にふれた最後の公開処刑のシーンである。数万の群衆がまるで楽しいイベントにでも来たように、浮き浮きした表情をしているように見えた。そして、犯した戦争犯罪にすればたぶん当然のことだと思ってしまう、その戦争の正体について考えさせられた。
きな臭い状況であるからこそ、思い出さないといけないことばを紹介したい。
「人間はたえず非人間化される危険のなかに生きている」
(オルテガ・イ・ガセット『個人と社会』)
油断をすれば、人間はいつでも人間から崩れ落ちる。たえず人間でなくなる可能性に晒されている存在だと、スペインの哲学者は言う。
「(気がつけば)戦争が廊下の奥に立っていた」
(俳人・渡辺白泉)
これも怖ろしいことばだ。