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事務局長コラム

マジョリティから問われる「生きる意味」

2025-05-16

 虐待され、心を深く病んで、人に懐かない。動物好きでも扱いに困るような犬ばかりを迎え入れ、育てている人がいる。静岡県の焼津市にある保護団体「わんずふりー」の代表、齊藤洋孝さん(54歳)だ。きっかけは、事業に行き詰まり死を決意して自宅を出ようとしたとき、その日に限って、飼っていた体重70キロの犬がドアの前で動かなかったことだという。「すべてを分かっていて、止めているな」。そう気づくと死ぬ気が失せ、助けられた命を自分以外のために使おうと保護活動を始めた(25.3.3『天声人語』から)。

 似たようなエピソードがドキュメンタリー映画『犬と戦争 ウクライナで私が見たこと』(25.2山田あかね監督)にあった。ウクライナのボロディアンカのシェルターでは、戦渦で取り残されている間に485匹の犬のうち222匹が飢えなどで亡くなった。その保護活動にやって来た元イギリス軍兵士トムは、世界各地の紛争地帯を渡り歩いているうちにひどいPTSDに陥り、引きこもっていたが、たまたま世話を頼まれた元軍用犬との出会いに救われた。この経験からトムは、生涯を戦争で傷ついた犬などの保護活動のために生きると決意し、その後ガザにも入り、今も保護活動を続けているという。

 さらにもう一つ。わが家の犬のことである。元々保護犬で、最初の譲渡先では1年間ケージに閉じ込められ虐待を受けていた。助け出されてきょうだい犬がいたわが家にやって来たのだが、怯えが強く、爪噛みや下痢が止まらず、かみつきはしなかったものの突然フラッシュバックしたかのように威嚇行為をくり返した。それでも年単位では穏やかになり、生来と思われる人懐っこい面も見せるようになっていたが、最後の半年間は複数の病気で闘病した挙句、去年の11月6歳の若さで亡くなった。私自身はというと、未だに自分の中で受け入れがたい気持ちを引きずっている。

 これらのことから考えてみたいことは、この犬たち、そして共に生きる人たちの「生きる意味」についてである。このような動物たちを生み出すから虐待や戦争はいけない、などと短絡的に言うつもりはない。

 私が強調したいのは、災厄や戦争の「その後」を生きている「今」の姿だ。いま、ふたたび戦争や災厄がやって来れば、かれらの「今」はたちまちに崩壊するだろう。しかし逆説的に言えば、かれらが今がふたたびの災厄に歯止めをかけているとも言える。「その後」のかれらの日常を維持するには、手がかかる。かれらの存在が再びの戦争、暴力をくい止めていると言えないか。

 それでも、「生きる意味」は常に他者(マジョリティ)から問われる。執拗に「意味がない」と切り捨てようとする声にはこう答えたい。「やっかいをかける存在がいるから(さらなる)戦争はくい止められているのだ」と。それが、やはりマジョリティから問われ続けるところの障害者の「究極の生きる意味」でもあると私は考えている。

(小河 努)

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