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蜘蛛の糸
2025-09-30
芥川龍之介に『蜘蛛の糸』という短編がある。高校の教科書などに掲載されているので、知っている人も多いと思うが、以下、あらためて内容を紹介する。
地獄で苦しんでいる「かんだた」は、強盗や殺人などさまざまな罪を犯してきた悪人だ。 その姿を見たお釈迦様は、極楽から蜘蛛の糸を垂らす。「かんだた」が生きている時にただ一つやった善行、道端の小さな蜘蛛を踏み殺さずに助けてやったことがあったからだ。
血の池で浮き沈みしていた「かんだた」が顔を上げると、一筋の銀色の糸がするすると垂れてきた。これで地獄から抜け出せると思った「かんだた」は、その蜘蛛の糸を掴んで一生懸命に上へ上へとのぼっていった。そして、のぼることに疲れた「かんだた」が糸の途中にぶらさがって休憩してふと足元を見ると、まっ暗な血の池から這い上がり蜘蛛の糸にしがみついた何百、何千という罪人が、行列になって近づいてくる。このままでは重みに耐えきれずに蜘蛛の糸が切れてしまうと焦った「かんだた」は、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。下りろ。下りろ」と大声で叫んだ。すると突然、蜘蛛の糸は「かんだた」がいるところでぷつりと切れてしまい、彼は罪人たちといっしょに暗闇へと、まっさかさまに落ちていったという。この一部始終を上から見ていたお釈迦さまは、悲しそうな顔をして蓮池を立ち去った―という物語だ。
この短編には、いろいろや寓意や教訓が見て取れるが、作者は、「自分ばかりが地獄から抜け出そうとするかんだたの身勝手な心」が破滅を招いたとしている。しかし、血の池に浮き沈みしている「かんだた」に自分を置き換えれば、目の前に一本の糸が下りて来れば思わず飛びついてしまうのではないか、その糸が後からぶら下がって来た他人のために切れる不安に駆られたときは、やっぱり蹴落としてしまうかも知れない、そういう利己心を否定することが出来ない気がして、落ち着かなくなる。
宗教評論家・思想家のひろさちやは、『すらすら読める歎異抄』(講談社文庫)の中で、このエピソードにふれておよそ次のようなことを書いている。
この蜘蛛の糸をのぼろうとした「かんだた」は、その利己的な行為によって最後の関門を越えられず、チャンスを逃した。
一方、かんだたレベルの善行を積むことすら出来ず、蜘蛛の糸につかまることも出来ない大勢の罪人、悪人がいる。そしてその悪人性は、われわれ凡夫もまた背負っていると言うほかない。そういう悪人は、はたして救われないのか。地獄に落ちて当然なのか。否、そういう悪人であっても往生できる、いや悪人だから往生できる、と言ったのが親鸞だ。
ここから、有名な親鸞の「悪人正機(アクニンショウキ)」の話が出て来る。
「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(第3段)
(善人が往生できるのであれば、ましてや悪人が往生できないわけがない)
これが絶対他力の思想だ。そもそも蜘蛛の糸に自力でつかむ必要はないとまで言う。大小悪業を働かざるを得ないわれわれ凡夫を救うことばではある。
地獄で苦しんでいる「かんだた」は、強盗や殺人などさまざまな罪を犯してきた悪人だ。 その姿を見たお釈迦様は、極楽から蜘蛛の糸を垂らす。「かんだた」が生きている時にただ一つやった善行、道端の小さな蜘蛛を踏み殺さずに助けてやったことがあったからだ。
血の池で浮き沈みしていた「かんだた」が顔を上げると、一筋の銀色の糸がするすると垂れてきた。これで地獄から抜け出せると思った「かんだた」は、その蜘蛛の糸を掴んで一生懸命に上へ上へとのぼっていった。そして、のぼることに疲れた「かんだた」が糸の途中にぶらさがって休憩してふと足元を見ると、まっ暗な血の池から這い上がり蜘蛛の糸にしがみついた何百、何千という罪人が、行列になって近づいてくる。このままでは重みに耐えきれずに蜘蛛の糸が切れてしまうと焦った「かんだた」は、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。下りろ。下りろ」と大声で叫んだ。すると突然、蜘蛛の糸は「かんだた」がいるところでぷつりと切れてしまい、彼は罪人たちといっしょに暗闇へと、まっさかさまに落ちていったという。この一部始終を上から見ていたお釈迦さまは、悲しそうな顔をして蓮池を立ち去った―という物語だ。
この短編には、いろいろや寓意や教訓が見て取れるが、作者は、「自分ばかりが地獄から抜け出そうとするかんだたの身勝手な心」が破滅を招いたとしている。しかし、血の池に浮き沈みしている「かんだた」に自分を置き換えれば、目の前に一本の糸が下りて来れば思わず飛びついてしまうのではないか、その糸が後からぶら下がって来た他人のために切れる不安に駆られたときは、やっぱり蹴落としてしまうかも知れない、そういう利己心を否定することが出来ない気がして、落ち着かなくなる。
宗教評論家・思想家のひろさちやは、『すらすら読める歎異抄』(講談社文庫)の中で、このエピソードにふれておよそ次のようなことを書いている。
この蜘蛛の糸をのぼろうとした「かんだた」は、その利己的な行為によって最後の関門を越えられず、チャンスを逃した。
一方、かんだたレベルの善行を積むことすら出来ず、蜘蛛の糸につかまることも出来ない大勢の罪人、悪人がいる。そしてその悪人性は、われわれ凡夫もまた背負っていると言うほかない。そういう悪人は、はたして救われないのか。地獄に落ちて当然なのか。否、そういう悪人であっても往生できる、いや悪人だから往生できる、と言ったのが親鸞だ。
ここから、有名な親鸞の「悪人正機(アクニンショウキ)」の話が出て来る。
「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(第3段)
(善人が往生できるのであれば、ましてや悪人が往生できないわけがない)
これが絶対他力の思想だ。そもそも蜘蛛の糸に自力でつかむ必要はないとまで言う。大小悪業を働かざるを得ないわれわれ凡夫を救うことばではある。
