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三好春樹の虐待防止・拘束廃止研修
2025-03-27
2月のことになりますが、福岡県教育会館で開かれた表題の研修を受講したのでその感想を書きたいと思います。参加した理由は、虐待防止センターの窓口の一部を受託することもあり、また、自立支援協議会で主催する講演の一つとして検討するためです。
この研修は、昨年の9月にも広島で開かれていて、くれんどから6名が受講しています。その感想を読むと、虐待防止へ向けて①余裕を持つことと、②見方を変える視点が学べた―という感想が多かったように思いますが、しかし通底する思いとして、認知症と言われる人たちとのつき合いや面白・深いエピソードを語る三好春樹と、その語りに登場する人物像にも魅了されたことが伝わって来ます。それが、現場に帰ってもう一度当事者とつき合い直しをしてみようというモチベーションを押し上げてくれたのではないかとも思いうれしくなりました。
地域移行、地域定着の時代と言われながら、なかなか受け皿(社会資源)がつくれないどころか、施設従事者等の虐待の認知件数が右肩上がりに上がっている現実があります。貧しい法制度や労働環境に対するソーシャルアクションは大切ですが、それを待っているだけでは解決しません。「外的余裕」を併せて、「内的な余裕」を持つ必要があります。そのためには、優生思想を含めた見方を変えることが必要になります。「私たちは(状況によっては)天使にも悪魔にもなる」というのが、三好春樹の語りの第1の柱です。「個体還元論」ではなく、「関係障害」という捉え方が三好春樹の思想の中核にあります。
「悪魔(暴力)」の典型的な例が、薬や隔離、抑制、カメラ監視システムなどです。哲学者のミッシェル・フーコーが紹介した一望監視システム(パノプティコン)を持ち出して、刑務所はもちろん、学校や病院、高齢者施設にも似(に)たようなところはないかと、三好春樹は問いかけます。パーテーション等によって、限りなく関係を分断していくのも問題ですが、反対に、「みんな一緒に」という名の下に、人の生活に必要な、隅っこや暗がりを(見えないところ)を私たちは否定してはいないかとドキッとしたりします。「介護者は(いともたやすく)権力者になる」、これが三好春樹の語りの第2の柱です。かのフーコーも「権力は日常的諸関係から生まれる」と言っています。自らの暴力性(内なる優生思想)を自覚することが、虐待防止の一歩となります。
最後に「余裕」を生み出すための処方箋です。三好春樹は①医療的人間観の克服と②自立人間観の克服をテーマに、常識的な見方をひっくり返して見せます。そして、そのことに取り組んでいる③個性的な現場を紹介していきます。エピソードで深い語りの出来るところが三好春樹のトークの魅力です。
たとえば、医療と介護のちがいをつぎのように対比させます。
【治す⇔くらす、患者⇔生活者、人体⇔人生、明日⇔いま、ここ】
認知症は、こう対比させます。
【脳の病気⇔老耄(老いによる人間的変化)、異常⇔異文化・異世界、異食・弄便⇔(赤ちゃん期への)回帰(快?・不快?)】
医療的人間観、自立的人間観は、「自立とは若さと健康を保つこと、若さと健康に依存すること」と捉えます。とすれば、「自立出来ない人間はダメなのか」ということになりかねません。
三好春樹は、こうまとめます。「認知症が悲惨なのではない。認知症ケアがないのが悲惨なのだ」と。
くり返しになりますが、三好春樹の語りを聞くと、もう一度現場に帰ってがんばってみようというモチベーションが引き出されるような気がします。呉の協議会で開くかもしれない講演ではそのことを期待し、そのために開催しようと考えています。
