福祉就労という選択―親としての半年
2025-11-25
就労継続支援B型事業所「カンパネラ」に通い始めて半年が過ぎた。
学校が掲げる「一般就労を目指す」という方針?をよそに、私たち親子は早い段階で“福祉就労”の道を選んだ。企業見学も行かず、「自分らしく居られる場所」を望んでの決断だった。
4月、通所が始まると本人の緊張はすぐにとけた。だが、気づけば居眠りばかり。休憩室で寝たまま午後の作業に出ていなかったこともある。
「居場所があること」に感謝しながらも、「このままでいいのか」と思い悩む日々だった。
そういう中でこれまでに本気で辞めさせようと思ったのが2度ほどある。
ひとつは、学校時代に比べて外にいる時間が短くなり、生活リズムがだらけてしまったこと。ゲーム時間が増え、「もっと外に出る時間を長くした方がいいのでは」と考えた。
もうひとつはスタッフへの態度。ある人には緊張感を持って接するのに、ある人にはふざけてしまう。そんな様子を他のスタッフが私(職員でもある母)に伝えづらいのではないかと感じたとき、「このままここにいていいのか」と迷った。
家で何度も話し合い、激しくぶつかることも多くなった。
親としても職員としても、「親がどこまで開き直れるか」は大きなテーマだと思う。
迷惑をかける子どもを人に託すことの不安や心の負担は第三者が想像するよりもはるかに大きい。ちゃんとさせたいと願う親は「人に迷惑をかける」ことに対してなかなか寛容になれないからだ。
私の場合、同じ職場にいることでなおさら口出ししてしまう。
本人は「カンパネラ続投」を強く望んだ。
半年の間に堂々巡りの話し合いを何度も経て、本人も少し成長し、私自身もだんだんと開き直れたことで、落ち着きを取り戻してきた。
その間、スタッフのみなさんが本人に向き合い、居眠り対策や言葉のやり取りに丁寧に対応してくれたことも大きい。
これからもきっと悩み、迷いながらも、通所を続けていくだろう。
それはやっぱり「くれんどのスタッフ」を信頼しているから、そしてまさに私たちが構想している“新しい福祉就労の未来”に、希望を持っているからだ。
(おおもと)
学校が掲げる「一般就労を目指す」という方針?をよそに、私たち親子は早い段階で“福祉就労”の道を選んだ。企業見学も行かず、「自分らしく居られる場所」を望んでの決断だった。
4月、通所が始まると本人の緊張はすぐにとけた。だが、気づけば居眠りばかり。休憩室で寝たまま午後の作業に出ていなかったこともある。
「居場所があること」に感謝しながらも、「このままでいいのか」と思い悩む日々だった。
そういう中でこれまでに本気で辞めさせようと思ったのが2度ほどある。
ひとつは、学校時代に比べて外にいる時間が短くなり、生活リズムがだらけてしまったこと。ゲーム時間が増え、「もっと外に出る時間を長くした方がいいのでは」と考えた。
もうひとつはスタッフへの態度。ある人には緊張感を持って接するのに、ある人にはふざけてしまう。そんな様子を他のスタッフが私(職員でもある母)に伝えづらいのではないかと感じたとき、「このままここにいていいのか」と迷った。
家で何度も話し合い、激しくぶつかることも多くなった。
親としても職員としても、「親がどこまで開き直れるか」は大きなテーマだと思う。
迷惑をかける子どもを人に託すことの不安や心の負担は第三者が想像するよりもはるかに大きい。ちゃんとさせたいと願う親は「人に迷惑をかける」ことに対してなかなか寛容になれないからだ。
私の場合、同じ職場にいることでなおさら口出ししてしまう。
本人は「カンパネラ続投」を強く望んだ。
半年の間に堂々巡りの話し合いを何度も経て、本人も少し成長し、私自身もだんだんと開き直れたことで、落ち着きを取り戻してきた。
その間、スタッフのみなさんが本人に向き合い、居眠り対策や言葉のやり取りに丁寧に対応してくれたことも大きい。
これからもきっと悩み、迷いながらも、通所を続けていくだろう。
それはやっぱり「くれんどのスタッフ」を信頼しているから、そしてまさに私たちが構想している“新しい福祉就労の未来”に、希望を持っているからだ。
(おおもと)
それでも私は折れない―ブラジルから日本へ、偏見と差別を越えて―
2025-10-22
私は、ブラジルから日本に来て30年以上になります。まず1990年10月頃に父が来日し、東京で工事現場の仕事をしていました。私が来日したのは 1991年12月24日で母と妹と一緒に来日しました。その日は大雪で、すごく寒い日だったことを覚えています、それから間もなく地震も体験しました。当時ブラジルでは雪、地震、台風がなかったので日本に来てすべてが初体験でした。最初はなんて恐ろしい国に来たのかと思いました(笑)。
中学校での孤独といじめ
中学校での孤独といじめ
1992年2月に父の仕事の関係で廿日市に引っ越しました。当時私は小学校6年生で廿日市の小学校に入学する予定でしたが、3月で卒業のため小学校には行かず、中学校からの入学となりました。この時は日本語を一言も理解できない状態でした。そしてここから辛い中学校生活が始まりました。
中学校では、クラスメートからある程度積極的に話しかけられたのですが、数人の男子からいじめを受けました。勉強机を教室から出されたり、弁当の中身をみて気持ち悪い顔をされたり、提出物を破られたり、ある男子からは叩かれることもありました。それで父が学校に行って、その男子に対して「アリネ嫌い?」と言うと、その男子は「嫌い」と返事をしました。そうすると父は「アリネもあなたが嫌い」と言い返し、その男子が驚いた顔をしていました。たぶん自分が嫌われることをしているのに気が付いたのだと思います。それ以降その男子からのいじめはなくなり、ふつうに話しかけられるようになりました。
しかし、日本の学校の規則や学校生活は分からないことだらけでした。日本語もあまり分からず1年生の時は友人もおらず孤独な学校生活でした。毎日ブラジルに帰ることばかり考えていました。でも、不完全ですが日本語を覚えることができました。
「外人」と呼ばれて
2年生の後半からは、多少ですが自分の思いを話せるようになったことで友だちもでき、学校生活が少し楽しくなりました。中学校で一番嬉しかった出来事は、同じテニス部の女の子がいじめからかばってくれたことです。他の男子部員に外人呼ばわりされた時、その女の子が、「アリネにとってあなたも外人よ」とかばってくれました。外人と呼ぶのはふつうと思われるかもしれませんが、「外人」は「仲間以外の人」「敵視すべき人」という意味があるので差別的に感じてしまう言葉です。なので外国人にあった時には、どんなに嫌な人であっても「外人」という言葉は使わないであげてくださいね。
今でもそうですが、日本語ができても、やっぱり見た目で判断され普段の生活でも差別を多く受けます。例えば、お店に入るだけで万引きを疑われているんじゃないかと思うぐらい後ろを付いてまわられたり、最初から入店を断られたり、「外人に売らない」と言われて追い出されることもありました。ただ歩いているだけなのに皮肉を言われ、これについては、私は言い返して、ケンカになったことも多かったです(笑)。
高校時代にバイトがしたくてもなかなか採用されず、ブラジルから遊びに来ていたおばあちゃんと近所のスーパーに行き、一緒に店長へ話をしてくれたおかげで面接を受けるこができ、やっとバイトをすることができました。
社会に出てからの仕事と葛藤
高校卒業後は、ブラジル人専用の派遣会社に就職しました。仕事は日系ブラジル人の生活全般の通訳・翻訳・派遣先のスタッフ管理など、何度も夜中に対応することがありました。この派遣会社では外国人に対して不合理な待遇の差が多く、私たち通訳者も嘘をつくことを強要させられていたので、私は納得できず2年でやめました。
その後、妊娠などを経てある会社に入社しました。そこも日系ブラジル人の派遣社員が多くいましたが、リーマンショックが起き、突然会社が「明日から来なくていい」と日系ブラジル人の派遣社員を使い捨てのように解雇しました。なんとかしてくださいと多くの人に頼まれましたが、私一人では何も出来ず、そんな自分に腹が立ち退職することになりました。
ある役場で働くようになり、ここでもリーマンショックの影響で失業した大勢の日系ブラジル・ペルー人が「生活できない」と毎日役場に相談に来ていました。この時、国が外国人に対して帰国支援事業を実施したことで、数人のブラジル人とペルー人がこの支援金を利用して帰国しました。この帰国支援事業は世帯主には30万円、扶養家族ひとりに対して20万円を支給していました。しかし、この帰国支援事業はほとんどの人が利用しませんでした。条件として「当分の間、今もっている在留資格での再入国は認めない」というものがあり、この「当分の間」は期間が定められておらず、また将来、本当に再入国が認められるかも保障がないものでした。そして、一番大きな理由としては子どもたちでした。およそ95%の子どもたちは日本で生まれ育ち、母国に一度も帰ったことがないので、母国の生活になじめない、帰国しても当分の間は日本に帰って来られないので、生活が苦しくとも日本に残った日系ブラジル・ペルー人たちは、生活が安定するまで生活保護を申請していました。ただ、この生活保護のケースワーカーが「お前達は国に帰れ!」「日本で何をしているのか!」などと本当にひどい言い方が多く、差別に絶えながら苦しい生活をしいられていました。それに対して私はごめんねと謝り言葉を選びながら通訳していました。
かけはしになりたい
これまで読んでいただいた以外にも、いまだに外国人に対しての差別や不合理はあり、苦しい思いをしている外国人はたくさんいます。私でいえば来日から両親は日本語が得意ではなく、日本語に関すること、銀行、役所、病院などすべて通訳させられました。学校でしんどい思いをし、家でもしんどかったので18歳になったら一人でも帰国するつもりでした。しかし、高校2年生の時にいまの連れ合いと出会い、彼の「通訳で人を助けられるじゃないの」の一言で自分の考え方が変わりました。これからも、少しずつでも差別がなくなり日本と外国人が良い関係になるよう、かけはしとなり頑張っていければと思っています。
くれんどで働いて
くれんどで働いてみて感じたことは、外国人と障害者に共通するマイノリティーは社会的な偏見や差別、制度へのアクセスの困難、そして見えない壁の存在です。ともに生きる社会を実現するためには制度的な支援だけではなく、一人ひとりの理解と社会の一員として受け入れる意識が重要と思っています。
(あんの)
ジョバンニのお弁当と、地域とのつながり
2025-09-30
私たちくれんどスタッフは、障害のある人たちが、地域社会で暮らせるよう支援しています。ジョバンニは、さまざまな障害のある人たちの日中の活動の場として、メンバーが仕事に取り組んだり、居場所として過ごしたりしています。私たちスタッフはメンバーが働きやすいよう環境を整え、メンバーと一緒に仕事をしています。
仕事のメニューの中に、お弁当販売事業があります。
「地域の人と同じように暮らしたい。お仕事したい。地域の人に自分たちのことを知ってもらいたい、障害があってもなくても、たくさんの人と関わりを持ちながら生きていくために、いろんな人と関わりたい」そんなメンバーの思いから地域とのつながりを求め、弁当販売事業を始め、15年目に入りました。
毎朝、厨房ではスタッフとメンバーが一緒に準備を始め、地域の方に喜んでもらえるようお弁当を作っています。お弁当が完成するまで、一つひとつの工程に、思いが込められています。
箸袋は、折り紙で一枚一枚、丁寧に折られています。お弁当のふたの部分には、お客様に少しでも季節を感じてもらえるようメンバーが季節の絵を描き、メッセージを送っています。お弁当パックにおかずを詰める作業をメンバーが行います。
これらの作業は、お弁当事業を始めたときから変わりません。その出来上がったお弁当を、メンバーと一緒に地域のお客様のもとへ配達に行きます。ジョバンニのお弁当は、ジョバンニの畑で採れた野菜も使いながら、ひとつひとつ丁寧に手作りです。高齢者や働く人に安心して食べてもらえるよう、からだにやさしいごはんです。
15年の中で、いろんなお客さまと出会い、別れもありました。お客様がジョバンニのお弁当を楽しみにしてくれ、お弁当を届けると感謝の言葉をかけてくれます。お客様がメンバーの名前を覚えてくれ、「いつもありがとう」「暑いけどがんばってね」そんな声をもらうことで、メンバーは、「自分たちの仕事は、地域の人に役立っている」「地域の人と関われている」と、そんな気持ちになり、やりがいを感じていると思います。
お弁当を通して、作る人、届ける人、受け取る人が自然と繋がっていく。
それがジョバンニのお弁当です。
お弁当は、人を元気にする。
地域の人とのつながりは、ここから始まり、今があります。これからも、メンバーの手から地域の方へお弁当を届けていきたいです。
もし、私たちと一緒にお弁当作りや、メンバーと一緒にお届けに関わってみたい方がいらっしゃれば、ぜひ一度、ジョバンニへ見学やお話だけでもしてみませんか?
私たちは、一緒に活動してくれるスタッフを待っています。
(おおふじ)
仕事のメニューの中に、お弁当販売事業があります。
「地域の人と同じように暮らしたい。お仕事したい。地域の人に自分たちのことを知ってもらいたい、障害があってもなくても、たくさんの人と関わりを持ちながら生きていくために、いろんな人と関わりたい」そんなメンバーの思いから地域とのつながりを求め、弁当販売事業を始め、15年目に入りました。
毎朝、厨房ではスタッフとメンバーが一緒に準備を始め、地域の方に喜んでもらえるようお弁当を作っています。お弁当が完成するまで、一つひとつの工程に、思いが込められています。
箸袋は、折り紙で一枚一枚、丁寧に折られています。お弁当のふたの部分には、お客様に少しでも季節を感じてもらえるようメンバーが季節の絵を描き、メッセージを送っています。お弁当パックにおかずを詰める作業をメンバーが行います。
これらの作業は、お弁当事業を始めたときから変わりません。その出来上がったお弁当を、メンバーと一緒に地域のお客様のもとへ配達に行きます。ジョバンニのお弁当は、ジョバンニの畑で採れた野菜も使いながら、ひとつひとつ丁寧に手作りです。高齢者や働く人に安心して食べてもらえるよう、からだにやさしいごはんです。
15年の中で、いろんなお客さまと出会い、別れもありました。お客様がジョバンニのお弁当を楽しみにしてくれ、お弁当を届けると感謝の言葉をかけてくれます。お客様がメンバーの名前を覚えてくれ、「いつもありがとう」「暑いけどがんばってね」そんな声をもらうことで、メンバーは、「自分たちの仕事は、地域の人に役立っている」「地域の人と関われている」と、そんな気持ちになり、やりがいを感じていると思います。
お弁当を通して、作る人、届ける人、受け取る人が自然と繋がっていく。
それがジョバンニのお弁当です。
お弁当は、人を元気にする。
地域の人とのつながりは、ここから始まり、今があります。これからも、メンバーの手から地域の方へお弁当を届けていきたいです。
もし、私たちと一緒にお弁当作りや、メンバーと一緒にお届けに関わってみたい方がいらっしゃれば、ぜひ一度、ジョバンニへ見学やお話だけでもしてみませんか?
私たちは、一緒に活動してくれるスタッフを待っています。
(おおふじ)
地域移行の出発点
2025-08-29
今年度、社会福祉法人くれんどでは、呉市から基幹相談支援センターや自立支援協議会等の委託事業を受託しています。午前はパンジーメディア制作のドキュメンタリー「大空へはばたこう~自立への挑戦~」を上映。午後には、広島県立大学の田中聡子教授による講演「地域で暮らすということ~当事者が主人公~」、そして参加者同士の思いが交差するシンポジウムが開かれました。
映像を通して、知的障害のある方々が地域で自分らしく生きる姿に触れ、参加者の多くが「こんなに表情が豊かになるんだ」と驚きと感動を覚えました。プロデューサーの小川道幸さんは、知的障害のある人たちと映像を共につくる中で、「彼らの目線に立つこと」の大切さに気づいたと語ります。カメラや音声、ナレーションに至るまで、当事者と職員が担ったこの作品は、まさに“共につくる”という姿勢そのもの。「社会が色眼鏡を外したとき、誰もが自由にはばたける」そんなメッセージが、静かに、力強く伝わってきました。創思苑の林淑美理事長は、入所施設から地域へ移行した25人の歩みを紹介。医療的ケアが必要な方、行動障害のある方など、地域では暮らせないと思われていた人々が、訪問医療やグループホームを活用しながら、家族やパートナーと共に生活している実例に、参加者は深く心を動かされました。
田中聡子教授の講演では、「地域で暮らすことは、誰にとっても当たり前であるべき」とのメッセージが響きました。支援が足りないから諦めるのではなく、「どうすればできるか」を考えることの大切さが語られ、参加者一人ひとりが自分の地域で何ができるかを考えるきっかけとなりました。
■参加者の声から
- 支援とは“その人らしい暮らし”を一緒につくること
- 映像を通して、地域で暮らす本人の表情がどんどん豊かになっていくのを感じた
- 自分の母の介護と重なり、映画が心に深く響いた
- 支援者として、本人の意思を尊重することの重みを改めて感じた
- それぞれの立場からの率直な感想が寄せられました。
■今後の論点
協議会では、国連勧告や国の方針を受け、地域移行を進めるプロジェクトの立ち上げを検討中です。障害者をセーフティネットの対象とするだけではなく、単身化社会、孤立化社会の再生可能性、持続可能な担い手のキーパーソンとして位置付けられるかの視点も重要です。現実に入所施設等に今現在も12万人を超える障害者が暮らし、待機者が減らない現実があります。全否定論だけでは私たちの現状を打開することはできません。入所施設等で、今のいま何に取り組んでいくのかという支援内容や支援の道すじを明らかにしていく必要があります。
■最後に
この上映会とシンポジウムは、障害のある人が地域で生きることの意味を、参加者それぞれの心に深く刻む時間となりました。「できない理由」ではなく「できる方法」を探すこと。その一歩が、誰もが自由にはばたける「大空」につながっていくのだと、感じました。
(まつふじ)
自立生活友の会 クッキング教室
2025-07-18
「自立生活友の会」は、障害のある当事者たちが中心となって活動しているグループです。誰もが自分らしい地域生活を送れる社会を目指して、月1回の集まりや季節の行事、情報交換などを行っています。
「一緒に料理を作って、みんなで食べたい!」という声から、自立生活友の会で初めてクッキング教室を開催しました。メニューは、みんなの得意料理や好きな料理から「カレー・サラダ・みそ汁・みたらし団子」に決定。新鮮な野菜はジョバンニの野菜市で準備し、真夏の暑さの中でもみんな時間ぴったりに集合し、にぎやかに調理がスタートしました。
印象的だったのは、それぞれが自然に役割を見つけて動いていたこと。車イスの人が作り方をみんなに伝えながらリーダー役を担っていたり、一人暮らしのメンバーが手際よく料理を進めていたり。日頃あまり料理をしない人も、包丁を手に野菜を切ったり、洗い物を進んで担当したりと、みんなで協力して台所がどんどん動いていきました。実家暮らしのメンバーたちにとっても、一人暮らしの先輩たちが手際よく料理を進める姿は、自分の将来を少し想像してみるきっかけになったかもしれません。
そして、できあがった料理はどれも本当に美味しくて、おかわりをする人が続出。ニンジンが苦手な人が「今日は食べられた!」と笑顔で話す場面もありました。片付けまでみんなで協力し、予定よりも早く終了。「またやろう!」という声がすぐにあがるほど、あたたかな会になりました。
次回は冬のメニューで開催予定です。お楽しみに!
(こうの)







