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理事長コラム バックナンバー

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あとひと回りがんばれる?

2020-01-16
 新年らしい感慨をひねり出そうと考えていると、干支(えと)がリセットされていることに気がついた。干支と言えば、正式には十干十二支、60年というサイクルということになるが、この歳ではとうていそんな先のことは考えられない。とりあえずは12年後もう一度子の年がめぐって来るまで生きているかな―というちっちゃな私的感慨である。
 
 80近くになっているが、まだ現役でがんばっていかなければならないという執着心というか、「使命感」にとらわれていることに気がついた。現役とは仕事のことではない。この5月に2歳になる保護犬のきょうだいのために、どうしても12年はもちろん、寅年くらいまでは何とか伴走ならぬ共歩くらいはできればという願いは大まじめに持っている。しかし、あとひと回り、とても自信はない。
 
 くれんどは、立ち上げたのが2003年だから、今年はもう17年を迎えることになる。私がもうひと回りする時間より長い。過ぎてみればあっという間だったが、まだまだゴールは見えそうにない。イヌとくらべて恐縮だが、イヌよりいっそう骨の折れるこちらのほうはしかし、一相談員として、理事として、よろよろと1年ずつ、お手伝いしていくよりほかない。
 
 『市政だよりくれ』1月号に載る「障害者の日常」特集で受けたインタビューで、わたしはふたつのことを申し上げた。一つは、抱僕の奥田和志さんの言にならって、くれんどが障害者のふつうのくらし、つまり「行くところ」「すること」「帰るところ」を不十分ながらつくって来たこと、もう一つは、ゆっくりと、多様で、変な、障害者とのくらしを展望することは、この世界に生きる人間とは何か、持続可能な社会とは何かを考えることそのものであるという意味合いのことをお話しした。道半ばというのは、そういう意味である。
 
捨てられた石がつぎの親石、礎となる(詩編118)

日常と新しい風

2019-12-18
 日常をつむいでいくのはしんどい。しかも、それが自分のせいで神経を病んだ妻の狂態と尋問をくり返し受けるのであればなおさらだ。作家・島尾敏夫の『死の棘』には、絶望と贖罪といたわりが交錯する、そんな夫婦の「日常」が執ように描かれる。
 
 障害者ばかりが集まっている、集められているという点では、くれんどというところは、あたり前でない非日常的な空間である。このインクルージョンのご時世、必要悪としてのくれんどという言い方もできるかも知れない。にもかかわらず、目の前の仕事に忙殺されるという意味において、その非日常的な空間があたり前になり、風景になりかねない現実が一方である。そこから脱するには、せめて、私たち自身が、マジョリティ(多数派)から障害者が後景、周辺に追いやられているという自覚と使命感を持ち続けることが必要である。絶望と贖罪をくり返すだけでは、くれんどに明日はない。
 
 そういう思いから、初日1日しか持っていなかった新任者研修を、下期から思い切ってリニューアルした。10月1カ月間かけて各部署を体験してもらい、その後のOJT(目標シートによるふり返り、2月に一度の研修)につなぐことにした。ふり返りノートを読んで、新任者、責任者それぞれに、新しい気づきを持ったのだとうれしかった。そこには、くれんどの置かれている状況、くれんどが何をしようとしているか、そして何よりも自分がどう参画していくのか、率直な感想と意志がそれぞれのことばで書かれていた。
 
 とにもかくにも、5人が新しい風をくれんどに運んできてくれた。くれんどが、あらためて希望の持てるチームになるのかどうかは、この5人の問いかけに答えるくれんどのとりわけ職員のチーム力にかかっている。
 
 この文章を書いているのは、1カ月の研修を終えた10月末、これがみなさんに届くのは下期をスタートさせて1カ月後、さて、くれんどはどう変わっているだろう。季節は、立冬から小雪を過ぎているころか。

子捨てのすすめ

2019-10-29
 ベトナム戦争に従軍したテーヴ・グロスマンは、その著『戦争における人殺しの心理学』のなかで、ふつうは殺せない人と人が殺し合う条件として、①物理的距離のあること(例:無人兵器などの遠隔操作)、②心理的距離のあること(例:宗教対立)をあげている。もう1つつけ加えるとすれば、③社会的孤立をあげることができるだろうか。
 
 むろん、社会的孤立を余儀なくされている人たちが「犯罪予備軍」だとするゆがんだ偏見に与する立場ではないし、そのような予断を統計的に裏付ける事実もない。
 
 しかし、姉、子ども、孫と身近に障害者と暮らした当事者家族の一人として、これまでの生活をふり返ってみれば、少なくとも社会的に孤立しやすい環境にはあり、そういった中で「日本における殺人事件の約5割が、親子間や夫婦間など親族のなかで起きている」という事実や報道に接すると、正直なところざわざわした不安がわき上がって来る。
 
 今年の5月末に起きた川崎市の登戸通り魔事件の直後、「家で荒れているひきこおりがちの長男が子どもに危害を加えてはいけないと思った」と、70代の父親が40代の子どもを殺害するという事件が6月1日、東京・練馬で起きた。何ともやりきれない気分になった。
 
仕事柄、障害のある子どもの子育てやひきこもり相談を受けることがある。気をつけていることは、子どもの出口(居場所)の提供・確保もさることながら、親の出口(逃げ道)の確保である。結論を言えば、「無限責任を負うことはない(社会的意識・世間から自由になること)。子どもはだれかがみてくれる(見捨てる覚悟を持つこと)」と、乱暴なことを言っている。
 
 ふり返ってみれば、人類の祖先が森からサバンナに降り立ったのは、大規模な気候変動仮説が言われた時代から、今では、木登りの下手な不器用で力の弱い集団が疎林や草原に追い出されたという仮説が有力とされるようになった(『絶滅の人類史』NHK出版)。弱い上にヒトの赤ちゃんを泣くのでさらに危険だ。ゴリラやチンパンジーの赤ちゃんは大人になるまでの1年もの間、親にぶら下がっているからそもそも泣く必要がない(『ゴリラからの警告』毎日新聞出版)。二足歩行によってさらに肉食獣に襲われながら、なぜヒトは生き残ることができたのか。弱いがゆえに群れで守り、たびたび食われながらも、自由になった両手で食料を運ぶためだったという食糧運搬仮説が有力らしい(『裸のサル』角川文庫)。
 
 今また、異質なものへの差別と排除が蔓延し、自己責任と自助努力が強調され、社会的孤立の穴はますますひろがっている。本当に重度障害者やひきこもりは不要な存在なのか、あるいは人類の未来にとってのカナリアなのか、そのことが現代の社会に問われている。当面の打開策の一つは、当事者の親が子を見捨てる(子育てから下りる)ことからだと思っている。「世の中、捨てたもんじゃない」。

社会保障制度の内実

2019-09-29
 参院選後に先送りしていた社会保障制度改革をめぐり、政府が秋以降、集中的に議論するための新たな会議を設ける方向で検討していることが分かったと、8月の初めだったか記事にあった。「全世代型社会保障の構築に向けた新たな会議」の立ち上げがそれだ。そういえば安倍首相は、参院選の投開票翌日の7月22日の記者会見で「子どもから子育て世代、現役世代、高齢者まで全ての世代が安心できるものへと社会保障全般の改革を進める」と強調していた。中身は、社会保障費の総抑制である。
 
 具体的に検討されるのは、①公的年金の受給開始年齢の75歳までの上限引き上げ、②75歳以上の医療費負担の1割から2割への引き上げ、さらには、③人口減などの影響を踏まえて支給額を自動調整する「マクロ経済スライド」の発動要件の見直しなどが言われている。
 
 財源について、消費税のさらなる引き上げや3000万円もの自己資金の備蓄=自助努力が言われることはあっても(なかったことになったが)、累進課税や大企業優遇税制の見直しが俎上にあがることは、まったくもってない。こうして、格差はますます拡大し、最近ではこの事態はもはや格差ではなく、階層、さらには階級だという言い方までされるようになった。これが、ときの政権に選挙で「信任を与え続けた」結果だ。

西暦と元号のあいだ

2019-08-26
 6月だったか、呉ポポロで疾うに旬の過ぎた『グリーンブック』を観たあと、近くのカフェに寄った。コーヒーを注文すると、「令和」と袋の表に印字しているクッキーが出て来た。このカフェに限らず、この類の便乗商法や「令和初〇〇」というキャッチフレーズがやたらと目を引く昨今である。根拠となっている1979年に制定された元号法は、たった2行の法律である。
 
1 元号は政令で定める。
2 元号は皇位の継承があった場合に限り改める。
 
付け加えれば、「元号は国民に強制するものではない」との附帯決議がこの法律にはくっついている。
 
 先代の代替わりの際は、この天皇の代替わりにともなう元号の改定(一世一元制)についてまだしも議論があった。世論調査では、元号存続論より元号廃止論のほうが、法制定以後むしろ増えたという記憶がある。今回は、議論どころか少なくとも表で見る限りは奉祝ムード一色である。この辺りが、日本の報道自由度ランキングが67位(国境なき記者団)と、低い理由の1つなのかも知れない。
 
 「元号は国民に強制するものではない」と、なぜわざわざ附帯決議につけたのだろうか。しれは、言うまでもなく強制が実際に行われているからである。便乗商法やミーハー的な装いを凝らしながら、その強制力の背景にある存在によって、かつて、宗教的マイノリティの弾圧と障害者の「非国民化」が行われた歴史がある。主権在民と思想・良心の自由を謳う現憲法に抵触するという批判も当然にある。
 
 この国際化の時代ゆえにか、面倒な換算や大金を使って改元する意味はどこかにはあるのだろう。しかし、独りよがりな思い上がりが、少数者を撃ち、寛容さと多様性をこの社会がより失っていく危険をはらんでいることを忘れてはいけない。

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